昭和52年8月7日 朝の御理解
御理解第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃよい日柄と言うのは、空に雲のない、本空ぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ、いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」
何でもない御理解のようにあって実はお道の信心の頂いてここの所がすっきりと心のそこから、これが信じられるおかげを頂いて初めて金光教の信者といえるのだと私は思います、ここにあるような事が心も中に引っかかっておるような事では金光様の御信者とはいえません。
昨夜おそうに森の武田先生がお参りになって今度見事な御普請がで気ておりますお神様のお部屋も見事に出来て全部檜作りだそうです、柱からなんから一切檜作りそれであれは磨きがかけなければならない、大工が請け負っておる人がもう柱とか、その檜を磨く手間と言うのは、請け負い賃の中には、はいっていなかつたとだからそれを又別にしてくれというからどんなものでしょうか、そりゃ磨く費用はまた別に払われたがいいですよ本当に磨きを掛けられたがいいですよ。
久富先生が今度大きな広いけや木のきの一枚板ありますそれで、わたしがそれを便所の扉につけてくれと言うけれども大工がどうしても付けると言わんどうしてじゃろうかといたら、そんないい木を便所につけたらばちかぶる勿体無いち。
昔からそんな風に言われとるから、私達はそげな風にはでけん、私の方は金光様の御信心を頂いておるからわざわざあるものを、よそからまた別に板を買ってこんでも、そのケヤキの一枚板でなされようと、ああたには関わりはない、私が罰がぶるときには私が撥かぶるからそれでしてごらんといったことでしたが。
やはり普請作事は使い勝手の良いのがと仰るようなことに入ってくるように思うのです、もう本当にくだらない迷信だと思いますけどそういうような、いうなら昔から言い伝えられてきたり、そうした習慣といったようなものが世間をせもうしてしまう、どういうところからそういうところに、日柄とか方位とかといったようなことにひっかかるかというと結局天地の親神様を知らないからです。
天地の親神様、天地の御恩徳をしらないから、天地の親神様の心をわからないからだというより他にありません、ですからこの六十五節がスッキリとわかるということは天地の親神様のお心がわかるという、心からスッキリしたものになってこなければならない金光教では日柄も方位も言わん使い勝手がよいのがと言う風に教えられてそれが分かつただけでは本当にわかったということにはならないしんからわかったということにはならない。
けれども天地の親神様のいうならばお心がわかってここが分かる時にそれはスッキリとしたしたものであります。まずはその天地の親神様のお心がわかって、そのお心をたいしての信心生活ができるようになったら、本当に白由無碍なね言うならばなんにこだわる引っかかる事ない日々がそれこそ有り難い一日一日として頂かせていただく事が出来るのです
今朝がたから私、テレビかラジオかわからんですけれども信心の一問一答があっておるのに対して私がそれにズーット応えておるというようなテレビのようでもあればラジオでもあるようなかんじ応えておる事がございましたが。
一か条一か条、丁度三か条までたまった時にそれを私はまあ素晴らしい質問であり、又素晴らしい答えだななと自分で答えさせていただいておる中に三か条に真で成就しないことはない金光教では真と言うことをいうがね、何故真になればおかげになるのかという質問でした。
皆さんならどういう風に答えられるでしょうか、真とか真心とか言われます、信条のみ教えの中にも真一つでおかげ受けられる道だと、もしおかげが受けられん時には自分の真がかけたと悟れとこう仰る、もう真一心と言うが真一心になったらもう即決のおかげです、もう目くらがその場で目が開くでしょう、ちんばはその場で立つでしょう、ね、真一心と言うのはそのように素晴らしい働きをもっておるものです。
何故かというとね、それは天地の心だからなのです、真一心真心というのは根だ天地の心が分からなければ今日の御理解をほんとうにスッキリと自分のものにする事は出来ません金光様の信心をしとってもむかしからあんなに言うてきておることだからひょつとしたごつどんがあるとまた世間に笑われるから、やっぱ日柄もみらなければ方位も普請デモするならやはり使い勝手のこうすればよいけれどもやはりまあ家相なら家相といったようなものから割り出した家を建てなければいけないといったようなことになりかねないただ話を聞いて金光教では迷信はイワンいや、それは迷信だ、日柄方位といつたことは皆迷信、金光様にお願いしてすれば大丈夫だといったようなときにはまあだ心に引っかかっておる時ね、天地の心がわかり天地の親神様のお心が分からせて頂いたら全然問題じゃない、引っかかる事はないのです。
だからそういう意味でも言うなら世間をひろう渡らせて頂く為にも天地の親神様のお心がいよいよわかりその親神様の心に添い奉る生き方をいよいよ身につけていかなければならないという事になります。
真で成就しない事はないそれが一心の真ともなるならばねおかげは即決だというほどしのいうならば働きをいただけるものです、だから一心の真をいよいよ自分の信心の信条にしなければならないためには天地の心がわからなければならない、何故真をもってすれば成就せぬ事はないか、真はそのまま天地の心だ体というのです。
え、洋間の所に昨日額がかかっております、あれはある方がなんか彫り物をする人がなかなか名人の人があってそれをお供えしたいからというので先生どういうことを書いたらいいでしょうか、どういう字を彫ってもらいましょうかと言われますから私は、紙に天の真地の心と書いた、天真地心ですかね、そして向こうの方がなかなか字やらも上手だということなんですがそりやこういう字をんなら、彫ってもらってくれというてだしましたら私がちょいと書いてやつたのがとてもこんな字は私は書けんから、このままここに彫りますというてほったというので私のいわゆるちょっと書いた字をそのまま彫ってあるのが応接間にある額です。
天の真地の心、だから天の真地の心と言うと真と心と合わせると真心と言う事になるねその真心一つで、いうならばない命も助かる開ける道も開ける程しのねですから私は結局天の心地の心を身に付けると言う事だと、そこで天の心とはどういう事かというとね美しい心だとしかも無条件これが天の心だとね、もう限りなく無条件に与えに与えてやまない心が真だと、だから天の心が真です。
こうもしてやるああもしてやるそれに例えば私がしてやる、私がした、もうそれはもう条件がある、私の我がはいっているね真とは無条件しかも限りない美しい心でと言うそれが真だ地の心と言うのは受けて受けて受けぬく心どういうような汚い物であろうがどういう嫌な事であろうがそれえを黙って、いうならばこれ人間の形で言うならばそれを合掌して受けると言う心が地の心、だから天の心地の心それが真心だと言う事になるでしょう。
そういう信心が出来てね、初めてこの六十五節,いや85節のスッキリとした心がわかるのです,あれが日柄を選ばなかったから、あれにばちかぶらしてやろうとかあれは方角を日柄も方角も言わなかったから、いうならばそれを虐めてやろう、そういういうならば意地の悪い悪神邪神の言うような事を言われる神様ではないということです。
天地の親神様と言う事はただ氏子可愛と言う一念これは人間だけの事だけではないでしょうけれども,生きとし生けるものを生かさずいにはおかんと言う働き幸せにせづにはおかんと言う働き,億年かかっても言うならばまるうせづにはおかんという働きしかないのが天地の心であるんならば天地の心と言うのはどういう心ですか,いわゆる真心である天が与えて与えてしかも無条件でね,与えてくださるその無条件の美しい心が真である。
黙って受けて受けて受けぬく心,いや合掌して受ける心ね,それがそのまま地の心だ,だからそれを二つ合わせると真心と言う事になる,成る程そういう素晴らしい真心を持ってするならば、成る程おかげが頂けるという事が分かります。
そういう説明をその私はしとる夢を頂いたなぜ真になれば真一つで助かるとか真心一つで助かるとかということはなぜ真になれば真心になれば助かるのか真心がそのまま天地の心だからその天地の心と一体になるから天地の働きをそのままに受けることができるんだと言う説明であったね,真心が大変あの人は『,,,,』向こうはそのそれを真心として受けなかったと言うてもし腹をたてるならばそれは貴方の真心じゃなかったと言う事になるわけです。
ね天の心じゃない地の心じゃない真心と言うのは無条件ねそういう心を目指し又願いとしての日々であらなければならない,そこでおかげを頂くためにはいよいよ天の心地の心を自分の心をするということがそのままに受けることができるんだとね,私はあの人に真心でしてやったんだけれども向こうは真心として受けなかったと言うてもし腹を立てるならばそれは貴方の真心ではなかったということです。
ね天の心地の心じゃないわけです、真心と言うのは無条件そういう心を目指し又願いとしての日々でなからねばならない、そこでおかげを頂くためにはいよいよ天の心地の心を自分の心とすると言う事が天地金之神様の心を心とするちうことになるのです。
だからお徳を頂くのです、おかげをいただくのです,そういう信心をする人であってハジメテこの六十五節がスッキリと自分のものになると思います,日のお照らしなさる日によい悪いはないと思えと、毎日毎日が有り難い日々である,様々に有り難くなかったり何とはなしにイライラしたり腹が立ったり心が暗くなるようないちにちであったというとするなら,いかに今日は天地の心を心とする精進をしていなかったと言う事になります。
そういう所を信心の一つの目当てとして又は願目として信心を進めていこう今日からスッキリとした御理解の六十五節の内容がわかってくる同時におかげが受けられるお徳が受けられるねそういうおかげを受け止めて、そして水も漏らさんよう二というのが日月の心ね言うなら実意丁寧神信心である成そうと思えば子供でもなせるようなことをおろそかにしておるからせっかく頂いたおかげを受けもらしてしまうね,完璧な信心というものは天地日月の心を目指すと言う事になる。
合楽理念はすぐ天地日月心を芯として説いてある、そこからきせづして和賀心も生まれてくるなるほどおかげは和賀心にあると仰せられる意味がよくわがってくる、ただとってつけたように和賀心ではおかげにならん,昨日吉井の方から馬田さんのお導きで参ってまいります、金子さんという方先日からもう本当に腹は立ててはならないというのにちょっとした事で腹が立ってしまった。そのことをまあ一生懸命お詫びをさせて頂いて,自分とこには神様もお奉りもしてないし,神様にお礼を申し上げるところもないし、何か拝む目当てを今日は頂こうと言うて参って見えた丁度4日の神愛会の日でした。
そして神愛会が終ろうとしておるところえ参って見えて色紙を持って見えましたから私が朝からいただいておった御理解で薫ると言う字を頂いてだいておったから,その薫ると言う字を色紙いっぱいに書いてあげたそしてその薫というのは草冠理を書いて重いとかいてあるねそしてその下に点点がうつてあるこれは点点四つは心という字であるだから自然を重んずる心と言う事である。
自然を重んずる心、自然に起きてくる全てのことを、それを丁重にいうならばはんちょうするということそこには言うならば薫るようなおかげね信心の例えば雰囲気がそれこそ薫るように家の中に心の中に頂けるそういう心におかげがあるという意味のことを書いて差し上げました。でそれを棚かなんかに上げてそれからその敷地におはなお立てたりお水をあげたりお供え物などしてから拝んでおりましたら主人が帰ってきてこりゃなかなかよかこっだなというて主人もおがみはしませんけれども大変賛成してくれたとこういうのである。ところがお夢を今朝からまた頂いたとそのお夢が、どこからか沢山の見事なぶどうを頂いておったところがまあ、なんて言うでしょうか、まあならず者というでしょうかなんかこう与太者風の人達が何人も自分の家にやってきて上がり込んで何か因縁をつけておるような所であった。
そこでまあ訳もないのにこんな人達がこんなこと言われることないと思うて腹を立てようとしたけれどもとそんときある人がお神酒夏と打算のとこういうたそれでお神酒を持ってきてお神酒をすぐ出したところがいうなら退散するように帰っていったというおかげを頂いたとこう言われるのです。
その前の日には、5日の日に見えたときには今日は腹を立てないはずと思うたのが腹を立てたそしたら朝方頂いたお夢がそのお米を仕込もうとして井戸のところに行くと昔風のポンプがある、籠の中にはお米入れてを持って言ってそれで水を汲もうというたところが高いから踏みつき持ってきてこう突き出したところがポンプの絵が短いだからその短い絵になにかこう針金でくくりつけてするけれどもギッちゃんバッチャンしてから水が一向上がらないそれでイライラしてきた水が上がらんからモヤモヤしよるところに丁度主人がひょろっとやってきたからもう腹ん立ってから主人のはらにかぶりついたちゆお夢を頂いたイライラモヤモヤしたら主人にかぼりついたそれが例えば前の日に腹を立てたということであった主人の事で腹を立てたらしいそれも他の事でなく信心のことで言われたから腹がたったと、こう言われるのです。
もう本当にままになる信心でしょうがお米を仕込むと言う事はね、それは火にかけたらご飯になるいわゆるままになるおかげの頂ける所謂前提に必ずそう言う所があるのです腹が立ったり悲しかったり寂しかったりイライラしたり、だからそこを大事にしなければならないそこを天地日月の心で受けなければならないと言う事なんです,そしておかげを頂いてお詫びをさせて頂いた,そして拝む対象に御神米とその色紙を拝ませて頂くことになったどうぞこの薫りという字をわたしの心の中に頂かせてください,自然に起きてくる事を重んじて頂く心を頂かせてくださいと願うそのわけを言うて話したら信心のない主人もこれはなかなかよか事だと言うて拝みはせんけれどもまあ反対はしなかったとこういうのである,もうそのお座敷が光り輝くように成りましたといっておられます。
そして昨日お参りをして見えてなら今朝から又そういうお夢を頂いた、こんな大きなてまりを,こう手でさしたてまりがありますよね,それを近所のおばあさんが持って見えてもうあたしはあんたにお礼をいおごたるち,だからこれは私のお礼のしゅるしにこれはづいぶん時間がかかって作ったつだけども私の真心じゃけんもろてくれといってもってきなった,それはどういう事かというともう大変にしゆうと親と仲の悪い人じゃつたね、嫁ってきて何十年そのおば様と心ようお話ししたことがなかったところがそのババサマガこの頃その言うなら友達のおばあ様のところに行ってから,この頃合楽の金光様に参るごっなって嫁ごが変わったのはじょうけんにおよばんということになった、もう近所んもんもみんなそげんいわれているという話を聞いて、言うから私がやっぱ前が悪かったけ変わり映えがしたったっですたいねというて昨日話したこっでしたけどもね、その舅親の言うならお友達の人がです、もうあんたが友達のそのおばあさんを大事にしてくれるというておばあさんがとっても喜びよるねだからその御礼のしゅるしにあんたに持って来たと言うて手毬を持って来た。
んならこれは私が頂くわけにいかんから金光様に一つと私の信心の恩人である熊谷さんと一つづつさしあげるそれでああたの名前でお供えさせて言いや私が名前はだすことはいらんけんというて言われたけれどもその方のお初穂とその方のあれをしてありましたからそのおばあちゃんに昨日御神米をを下げさせて頂いたんですけれどもそのくらい信心によつて変わらせて頂いてそして神様から頂く事のそれが的確,腹を立てんぞと思うたら腹を立てたらもうそれこそあくる日は主人の鼻に噛み付くごたる心の状態に変わっておる自分をね神様にお詫びさせて頂いてお願いに参りましたら親先生から薫るという字を頂いた自然を重んじる心,これには心がそれこそ豊かないうならば薫るようなそれこそ真善美に輝くような心の状態を頂いておかげを頂いて行くというそれを拝む対象にさせてもろうて今日もどうぞ自然を重んずる心をいよいよ頂かせて下さいと拝みょりますとこういうのです。そしたら今朝からまたお夢を頂いて沢山のぶどうを頂いたそこで私が申しました,信心させて頂いて自分の心が自分でも二人見るように変わらせて頂い事が有り難いというのは信心ちは有り難いもんだ教えちは有り難いもんだと思うておる事はぶどうは美味しいもんだだなぶどうは美味しいもんだなと思うていただきょんなさるようなもんだけども、もうぶどうの美味しさだけではいけない、どういうね、それこそ理不尽にですどういう事を言われようがならず者のようなものがやってきてから上がり込んで来て因縁をつけるようなことが合っても,自分のありがたき勿体無い恐れ多きの神酒をですその人達に振舞うような気持ちにならせて頂いたらね、いうならその人達を黙って帰らせていただくことが出来た。それには自分自身が有り難き勿体無き恐れ多きを頂いておらなければならん心が暗くなったり腐ったりするような時には今こそ頂いておったぶどうを,ブドウで食べずに壺の中に入れて言うならブドウ酒を作るような心持2ならなければいけない,ジット蓋をしていうなら中で発酵したブツブツいい本当に心の中にブツブツいいたいようなことがあっても金光様金光様と言うてそれを言うならばふたおしてジーット辛抱していくうちにね、ぶどうの美味しさではないアルコール分が出てそれこそ飲めばそれこそホロット有り難い気持ちになれる極楽の気持ちにもなれるようなお神酒になるのだぶどう酒になるのだ,もう武道の言うならばおかげからブドウ酒のおかげに神様が進んでいけよそのブドウ酒をいただいておかなければ言うならブドウ酒を振舞う事が出来ない、はあここで有り難き勿体無きを飲ませたらこの人どんが去っていくかも知れんばってん,有り難き勿体無きがなかならあげることもできないとういうお知らせなんですお互いの信心もです,信心がそのようにして,ただおかげの有り難いと言うことから言うならいよいよ今度は信心が有り難いという所に進んでいかなければなりません,それにはですなら天地日月の心になる事肝要だと仰せられますから天地日月の心になる事にいわば精進させてもらう簡単に言えばそれだけども天地日月の心とは具体的にどういう事なのかということを、んなら合楽理念を紐解かしてもらえばそこにこう言うときにはこう言う生き方こう言う時にはこう言う信心とみやすうに気やすう頂けるそれこそ嬉しゅ楽しゅうねそれを行じていけるように合楽理念は説いてある、そういうおかげを頂かせて頂くところから生まれてくるのが和賀心であるね,その和賀心による信心生活そこには今日の65節をと言ったような物が,ただ金光様の信心をすれば日柄もいらん方位もいらんといわれるからとわかっただけでなくて芯から分からせて頂くためにまづ天地の心が分からなければいけないということ天地の心がわかったらその天地は人間を虐めてやろうとか窮屈にしてやろうといったような思いはさらさらないと言う事です。
それが分からんから窮屈な中に入っていかんならん,良い日悪い日といわなければならん世間を狭もう暮らしていくような事は、それだけですんだようですけども実は天地に対するところのそれは,天地に対していうならばけちをつけるようなもんですからご無礼
になるのです。日柄を言う足り方位を言うたりと言う事は,だからご無礼をつくらんと言うだけでなくて,天地の喜びが受けられるような心の状態が開けてくるそこに日柄もいらなければ方位もないとわかって始めてスッキリとあなたのものになった,本当の金光様の信心らしい生活いが出来るという事になるのです。
その過程においてお互いが日月の心にならせて頂くそれは真心である天の心を真と言うなら地の心が,地が心であるね,天の心とは無条件で限りなく美しくならせて頂くと言う事与えて与えて止まない心である地の心とは黙って受けて受けてしかも合掌して受けぬこうと言うこころである,そういう心で頂いたおかげをいよいよ水も漏らさんようなおかげを完璧にすると言う事のために,日月の心実意丁寧神信心が要るのである。
実意丁寧神信心とはけして難しい事ではないね,成そうと思えば子供でも成せるようなことを今まで疎かにしておった事をそれを行いの上に表していくということが天地日月の心である,そういう信心が分かり身についてきて始めて今日の65節が本当意味で自分のものになる時だと思いますね。 どうぞ